「電車で席を譲った」「困っている人に声をかけた」「大切な人にプレゼントをした」。誰かのために役に立ったということはとても嬉しいことです。
しかし、善行をしたことがかえって自分を不幸にするタイプがいます。
○○してあげた病
電車で席を譲ってあげた
困っている人に声をかけてあげた
大切な人にプレゼントをしてあげた
なのに・・・あなたは・・・
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○○してあげた
と思う人は見返りを求めています。自分のした善行に対して、相手に見返りを求める人は見返りがないと善行をした分だけイライラし、イライラの分だけ時間を無駄にし、時間を無駄にした分だけ不幸になります。
まさに善行が人を不幸にする悪循環に陥ってしまいます。これを○○してあげた病と言うとか言わないとか。
善行に見返りを求めない『無功徳』
そうは言うものの人助けをしたらお礼があってもいいでしょ!
プレゼントしたら喜んでくれてもいいでしょ!
って思っちゃいますよね。私も思っちゃいます。
しかし禅では自我を満足させるための行為を良しとしません。
『功徳』とは、よい行いに対する報いのことです。しかし『功徳』を得るために善行をしても『功徳』はもたらされないと禅では説いています。
打算や下心を捨てて無心で行うことが大切だということです。
昔、梁の武帝が達磨大師を招いてこう聞きました。「私は寺を建てた。僧を多く育てた。私にどんな功徳が得られようか?」達磨大師は一言。
「無功徳」
寺を建てて僧を育てて皆が幸せになる。それでいいじゃないか。
無功徳こそ功徳なり。
何の見返りも期待せずに当たり前のことをして思いやりをもって利他的な心で接する。「私はこんな善行をしました」と言って周囲にアピールして何になるでしょうか。良いと信じることを無心で行動に移せる人。善行をして自分の気持ちが安らぐ。それで十分だという禅の言葉です。
愛は与えるだけ!
夫婦関係にしろ恋人関係にしろ私がこのくらい愛したから同じ程度愛を返してよ!という考えは危険です。
自分の愛情を伝えるだけ。自分の愛情を与えるだけ。
与えて満足。返ってきたらちょっとラッキー。くらいが丁度いいかもですね!
『与えられる人』『与える人』
何かを与えられるよりも何かを与える人になりたい。善行をして人に何かを与えるとそれだけで自分の気持ちが安らぎを与えられる。
結局、与えることは与えられることに繋がっていくのだと実感しています。
無功徳。正式には無功徳の姿勢こそが功徳となる。と理解しました!