仕事で上司から叱責を受け落ち込んでしまう。
「言われるうちが花だよ。」と周りの同僚は言う。
「そうか、言われなくなったら終わりだよな。」と自分を納得させる。
うーん、仕事においてよくあるひと場面ですよね。
私も叱責のストレスを感じながらも「仕事だからな~」と自分を納得させていました。
でもこれって今の時代に合っているのでしょうか?
「言われるうちが花だよ」
昔からこの言葉に違和感を感じていました。
そこで今回はこの「言われるうちが花だよ」を考えていこうと思います。
誤魔化しの言葉
ある時1つ自分に質問してみました。
叱責されたストレスを「言われるうちが花」で誤魔化していないだろうか?
たしかに今までの私は、叱責を受けるのは自分に期待してくれているからだと思い、叱責を正当化させていました。
一種の防衛機制かもしれませんね。
でもその叱責って本当に必要だったのでしょうか。
もっと他の伝え方があったのではないでしょうか。
過去に上司から叱責を受けたエピソードを思い浮かべながら、自分が上司という立場になった今、反面教師として「言われるうちが花だよ」を考えてみました。
『課題の分離』から考えてみる
自分のことを思って、または期待して放った上司からの叱責は伝わるものです。
叱責の前後に自分のことを思っている言動が現れているからです。
しかし、上司が自分のことを思っておらず、ただ上司自身の怒りをぶつけるだけの叱責は、まさに言葉の暴力だと言えます。
その言葉の暴力を「言われるうちが花だよ。」という言葉で正当化させていました。
あ~、怖い怖い。
教育・文化って、それが当たり前だと勘違いさせてしまう可能性があります。
間違った教育は間違った心の構え方を作ってしまいます。
では「言われるうちが花だよ。」という言葉ではなく、どのような言葉や心の構え方が良いのでしょうか。
心理学者アルフレッド・アドラーの言葉に「課題の分離」という言葉があります。
日本では「嫌われる勇気」という書籍がブームになり売れましたので聴いたことがある人も多いと思います。
この「課題の分離」は、
それが相手の課題なのか自分の課題なのかを分離して考える
という相手と自分の課題の整理のことを言います。
上司から叱責を受けた時、
①どこが自分のミスだったのかを考える。
②そのミスはなぜ生まれたのかを考える。
③そのミスを繰り返し起こさないようにするためにはどのような課題をクリアすればよいかを考える。
そのミスが起こったのは自分の課題だからです。
一方、上司の叱責という事実は、自分の起こしたミスとは別の事実であるということを考えます。
自分がミスをした事実。
上司が怒っているという事実。
この2つは別の事実です。
①上司は自分の起こしたミスに対して怒っているのだな。
②怒っているということは上司の思い浮かべていた結果とは違うことが起きたのだな。
③上司の思い浮かべていたことと違う結果になって、上司の感情のコントロールができていないのは、その上司の課題だな。
だから叱責は上司の課題だ。
叱責は自分の課題ではないので解決させようとしなくても良い。
自分は自分の課題を解決するように努力しよう。
このような「課題の分離」という心の構え方の教育を受けていたのならば、いちいち上司の叱責を自分の課題のように捉え、上司の言葉に自分の感情をコントロールされなくても良かったのです。
言い換えると、今までは上司によって自分の人生や行動・感情をコントロールされていたのです。
自分の人生です。人にコントロールされたくありません。
課題の分離ができるようになると、相手によって自分の感情が大きく振り回されるということは少なくなりました。
少なくなったということは0になったということではありません。
だって頭では分かっていても、相手の言動にイライラしてしまいますもん。
頭では分かっているんですけどね。
でも、それでいいと心理学は言ってくれます。
課題の分離は後出しOKなんです。
その時に分離できなくても
「あー、あの時の自分のイライラは、今考えると相手の課題だったな。よし、相手の課題なんで気にしなくてもいいや。」
と時間をおいてから課題を分離しても間に合います。
課題の分離に時効はありません。
10年前のことでも今から課題の分離をしても決して遅くはないんです。
って自分の頭を整理していると、中学生の頃のエピソードが浮かんできました。
中学校のエピソード
私の通っていた中学校は自転車通学は禁止されていましたが、一部の生徒は内緒で自転車通勤し、近隣の道路に路駐していました。
たびたび近隣住民からの苦情で発覚することがあり、あまりにも改善が見られない生徒は停学処分を科せられることもありました。
私は友人と一緒に歩いて通学していたため自転車通学はしていませんでしたが、中学生ということで悪ぶっていた同じ部活の同級生は数名自転車通学をしていました。
特にそのこと自体は自分には関係のない事なので気にも留めていなかったのですが、なにかの話しの中で母親に「○○君達は自転車で通学しているみたいよ」と話しをしました。
特に母親も「ふーん。」というくらいで話しを深く聴いてはいなかったのですが、数日後、自転車通学していた同じ部活の○○君から怪訝そうな表情で部活終わりに呼び出されました。
「お前、俺たちが自転車通学しているのチクったやろ。」
ビックリしました。
自転車通学をしている同じ部活の生徒のことは私には関係のないことで、ましてや先生にチクるなんてことは頭にもなかったことだったからです。
「いや、俺チクってないよ。」
あまりにも○○君と周りにいる自転車通学をしていた複数人の表情が怖かったので、目をそらしながら答えました。
「うそつけ!俺の親がお前の親から自転車通学のことを言われたって、俺めちゃめちゃ親から怒られたわー。」
たしかに私は自分の母親に自転車通学している生徒がいることを話していました。
「お前、チクるなんて最悪やわー。」
ドン!
私は押されて後ろの壁に激突してしまいました。
その後は複数回蹴られ、あまりにも怖くなってしまい「ごめん。ごめん。許してー。」と懇願しました。
他の自転車通学していた周りの生徒も私が蹴られているのを止めることなく、中には笑いながら見ている人もいました。
それまでイジメやケンカの類は経験がなく、急に友人と思っていた人たちから暴力を受けた時のショックは当時の私には耐えられないものでした。
大人になって振り返ると、悪いことをしていた○○君達が暴力に出る行為をすること自体が子供じみていますし、逆切れしている状況も本来ならばおかしな行為です。
しかし当時の私は暴力を受けたショックのはけ口を○○君ではなく自分の母親にぶつけてしまいました。
それから母親に対して反抗的になり、関係性は悪くなっていきました。
大事な親子の関係性なのに○○君達の暴力によって壊れていったのです。
課題の分離に時効はありません。このエピソードを課題の分離の考え方で振り返っていました。
当時の私は勝手に母親が○○君の母親に自転車通学のことを話してしまい、その結果私が暴力を受ける羽目になったと母親を恨んでいました。
母親が100%悪いと思っていたのです。
しかし100%悪いのは○○君達です。母親は1%も悪くありません。
課題の分離をできていなかったのは私自身だったのです。
100%悪い○○君達に向かっていけなかった自分の弱さが私の課題であったにもかかわらず、その弱さを見ようとせずに母親に向かっていったのです。
向かっていく相手が違ったのです。
私は向かっていきやすい母親を選択し、自分は被害者だ、加害者は母親だと勝手に問題を母親にすり替えていたのです。
弱い自分が本来の課題であるにもかかわらずです。
全く情けない話です。
課題の分離を理解するまで、このエピソードにおける本当の課題が分かっていなかったのです。
本当に怖いものです。
今からでも母親に謝りたい。
あの時、いわれのない罪を着せられた母親の心情を考えると今すぐにでも謝りたい。
あの時母親を加害者扱いした自分に言ってやりたい。
「母親は大きな愛情で私の怒りの矛先になってくれていたのだ」と。
間違っていることを正すこともできたはずです。
しかし、私の怒りの感情を大きな愛情で受け止めてくれていました。
ちゃんと怒らせてくれていたのです。なんという愛情でしょうか。
母親にありがとうと言いたい。
でも母親は数年前に他界しました。
もう少し早く理解したかったと思いました。無知ほど怖いものはありません。
今となっては「課題の分離」の大切さを痛いほど身に染みて理解していますので、本当の課題が明確になり、母親に対して素直な気持ちを持てた今の自分が好きになりました。
母親は亡くなりましたが、母親の愛情を感じることができたのも「課題の分離」を理解したからだと思います。
課題の分離に時効はありません。
このような大切な感情に気づかせてくれるからです。
学んで良かった良かった。
まとめ
「言われるうちが花だよ。」は古い考えかと思います。
言われた側の感情を考えていない言葉ですし、言っている側の本来の気持ちが分からないままの表現だからです。
この時代にあった言葉に変換すると
「言われたことよりも自分の課題を明確に。」の方が良い表現かと思います。
言われた言葉に敏感に反応するよりも、その中での自分の課題を明確にし取り組んでいった方が、ずっと健全で建設的だからです。
昔の言葉はとても良い言葉が多くありますが、今の時代に変換して使用すればもっとマッチした言葉になるかと思います。
言葉と考え方はちゃんと自分の中で理解していきたいと改めて感じた今日この頃です。