偽善とは
偽善とは「取り繕った見せかけの善」のことであり、「嘘」と言い換えることが出来ます。大抵は自分の欲のために善をすることを指し、そのような人を「偽善者」と言います。何となくネガティブなイメージで使われる言葉ですが、私はそうは思いません。偽善をする背景は自分の欲のためかもしれませんが、結果として善を施しています。悪行を施す人よりは、はるかに素晴らしいですし、善を施さない人よりも善行を施しているのですから誰かの役には立っています。しかしながら、偽善者という言葉のネガティブさは大きいものがあります。
偽善者エピソード
私が小学生4年生の頃、この「偽善者」という言葉を初めて耳にしました。今でも忘れない衝撃です。掃除当番で掃除の場所が定期的に変わっていくのですが、廊下掃除はみんなが嫌がる場所でした。外の掃除は遊びながら掃除できるのに対して、教室・廊下掃除は担任の先生が目を光らせていました。さらにバケツに水を汲んで運ぶ作業は小学4年生には重労働でした。そのような掃除当番で廊下担当の順番が回ってきた時のことです。クラスの中でも特別に可愛かったAさんがバケツに水を汲んでいました。水が入ったバケツはAさんには重労働だろうな、と思ったので何気にバケツ運びを変わることにしました。
「重いでしょ。変わるよ。」
それを見ていたクラスのBくんが私に向かって
「あれー、Aにいい顔してんな。偽善者、偽善者―。」
一体何を言われているのか分かりませんでした。当時、言葉のボキャブラリーが乏しかった私は、「偽善者」という単語が分からなかったのです。しかし分からないながらも、Bくんの言い方と表情で
「良いことは言われていないだろうなー」
と感じていました。
さらに「ギゼン」という濁音から想像し、何か悪いことなんだろうなとも思っていました。家に帰って早速辞書を調べたのを覚えています。自分は何気に良かれと思っておこなった行為が「嘘の手助けの行為」とBくんに思われたことに大きなショックを受けました。
偽善とは「自分の欲のために取り繕った見せかけの善」今、思い返せば、Aさんによく思われたいなという下心があったという点では自分の欲のために行った行為かなーとも思えますが(笑)当時はバケツを持ってあげるという行為が偽善に該当するなんて考えは、これっぽちも考えていなかったですね。
自分のためにする善「雑毒の善」
仏教では自分のためにする善を「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」といいます。言葉が強烈ですよね。毒って。雑毒の善は言葉のとおり毒のまじった善ということです。ここでいう「毒」というのは見返りを期待する心を指します。見返りは様々あるかと思いますが、親切に助けてあげたので当然お礼や感謝をされるだろう、という心も「感謝されるという見返り」を求めていることになります。見返りを求める以上は本当の善とはいえないということです。
禅宗の教え
昔、禅宗の僧侶の仙崖が橋の下でブルブルふるえている乞食を見て、自分の着ていた衣を脱ぎ与えました。ところがそれを着た乞食は無言で羽織り何も言いません。何も言われないので仙崖が「どうだ、少しは暖かくなったかな」と聞くと、「着れば暖かいに決まっているだろ。分かり切ったことをなぜ聞くのか。与える身分を喜べ。」と答えたそうです。
感謝されるという見返りを期待する心を見透かされた仙崖は、自分の取った行動が本当の善でなかったことに気づき深く反省したといわれています。
【この話を読んだ時の私の感想(昔)】
偉そうな乞食だな。与えられたらお礼を言いなさいよ。
【この話を読み返した最近の私の感想(今)】 与える身分を喜べ。うーん、深いなー。 与えることが満足。それ以上のことは求めないよ。 これこそが本当の善なのかなー。 でも自分にはできないなー。
偽善ではない本当の善はできるのか?
偽善ではない本当の善。自分にはできないなーと思っています。そもそも仏教では人は煩悩具足と言われています。
「煩悩」とは欲などの私たちを煩わせ苦しめる心です。
「具足」とは100%それ以外に何もない塊ということです。
すべての人は煩悩具足ということは、人間は煩悩でできた煩悩の塊ということです。
お釈迦さまはすべての人の姿を
心常念悪(心は常に悪を念じ)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善無し)
と『大無量寿経』に説かれています。すべての人は、心も口も身体も悪しかできない極悪人だ、ということです。私たちは煩悩の塊ですから煩悩でやる善しかできません。お釈迦さまも言っているので、私なんかが本当の善なんてできる訳がありません。
大きな善は大きな毒を含む
大きな善をするほど大きな毒を含みます。たとえば、友人に100円のプレゼントをした時にお礼がなくても特に気にならないかもしれません。では1,000円のプレゼントでお礼を言われなかったらどうでしょうか。100円のときより気になる方も増えるのではないでしょうか。では10,000円のプレゼントでお礼がなかったらどうでしょうか。
「もうあなたにはプレゼントしない。」
「非常識な人だなー。」
等と思いませんか。このように大きな善ほど猛毒を含んでいます。
龍樹菩薩は
「少湯を大氷池に投ずといえども
少しの処を消して
かえって更に氷を成ずるが如し」
(『大智度論』)
と教えられています。
「四十里四方の池に張りつめた氷の上に 少量の熱湯をかけて溶かそうとしても 翌日にはその場所はふくれ上がっている」
ということです。善に向かえば向かうだけ善のできない私だと知らされるのです。私たちのやる善は雑毒でありすべて偽善だと知らされます。
偽善はやらないほうがいいのか
答えはNOです。偽善でもなんでも「善」であるのならばやった方が良いと思います。大切なのは、偽善者が悪いわけではなく偽善者だと気づかない鈍感者の方が人生の豊かさを感じられないということです。偽善者だとあとで気づくとフォローができますし、自分の欲に気づくことが出来ます。雑毒の善だからといってやらなければ善い結果は一つもきません。偽善でも実際に善をやってみると自分の欲に気づくことができ本当の自分の姿が分かるようになります。自分を知るためにも偽善はやってみて損はないかと思います。まだ、損得って言っている時点で自分の未熟さが出ているのですけどね。